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びぼうろくてきな

アイドルと声優がすきです

一ノ瀬トキヤ担になれなかったHAYATO担の話

私がHAYATO担だったら一ノ瀬トキヤを受け入れられたかっていう仮定のクソポエムです。
さすがにあれでそれなので折りたたみます

 

 

 

 HAYATOはわたしにとっての太陽だった。


朝はテレビ越しに見る彼の姿で1日が始まり、夜は彼が出演している歌番組やバラエ ティ番組を夢中になって見ていた。今日が何月何日なのかはHAYATOのCDや雑誌の発売日で把握していたし、同じように今日が何曜日なのかは HAYATOのレギュラー番組が私に教えてくれた。

ライブが近付くと口だけになりがちなダイエットにも気合いが入るようになって、いつもならひと駅歩くことですら億劫がる私が、イヤホンから流れてくるHAYATOの曲を聞きながら二駅分も三駅分も歩いたりしていたけれど全然苦にはならなかった。

私の生活はHAYATOが形作っていると言っても過言ではなかったし、朝から彼の姿を見ることができない土日は憂鬱だとすら思っていた。

私が毎日見ていた画面越しのHAYATOは、いつだって笑顔を浮かべていた。
HAYATOの笑顔はまぶしくて明るいけれど、それでいてふんわりと温かいひだまりみたいなもので、とても陳腐な言葉だけれど、その笑顔に何度元気をもらったかわからない。

楽しい時にはもっと楽しくて嬉しくてはじけるような気持ちになったし、落ち込んだ時にはHAYATOが励ましてくれているように思える反面、こんな自分ではHAYATOに顔向けできないと絶望的な気持ちになることだってあった。


初めて行ったHAYATOのライブのことだって今でも鮮明に覚えている。
誰もいなかったステージに彼が現れた瞬間、世界がかわった、と思った。
きらきらとしているけれど無機質だったステージが一瞬で温度を持ったのがわかったし、きらびやかな照明も派手な音楽も過剰なほどに飾られた衣装も、全てが彼を彩るピースだった。HAYATOがこの世界の中心にいる。
いい席だとは言えない場所だったけれど、ステージ上でたったひとりで歌い踊る彼が遠いとは思わなかった。
最後の曲を聞きながら、私はきっとこの人のことが一生好きなんだと思って泣いたことは、それこそ一生忘れられない。
私はあの日、大好きなHAYATOにもう一度恋をした。


だけど、私が一生ものだと思っていた恋を終わらせたのもまたHAYATOだった。
あの日のことは正直思い出したくもないけれど、頭の片隅に吐き捨てたガムのようにべったりと張り付いている。
HAYATOのファンだった私を終わらせたのはHAYATOを演じていた、と告げた一ノ瀬トキヤだった。

芸 能人のキャラ作りなんてよくあることだけど、それがHAYATOの本質かどうかなんて私は考えたこともなかった。HAYATOという存在が虚像だと告げた 彼は、HAYATOに惹かれ、信じていたHAYATOのファンも全て虚像だと言うのだろうか。私が彼に励まされ、元気をもらい、涙した感情も全て作り物な のだろうか。

私にとってはテレビや雑誌で見るHAYATOが私の知る彼の全てだったし、ライブで見た彼は偶像でも虚像でもなく現実のものだった。
だからこそ私はHAYATOと同じ顔と同じ声で、HAYATOなら絶対にしないであろう表情と話し方を、よりによって生放送で行った一ノ瀬トキヤという存在を受け入れることができなかった。
HAYATOならそんな残酷なマネは絶対にしない。
一ノ瀬トキヤはHAYATOごと彼のことを好きだったファンの存在も切り捨てたのだ。

それでも現実、いや一ノ瀬トキヤとマスメディアはとても残酷で、あっという間にHAYATO非実在なんとやら、みたいな存在にされてしまった。部屋に貼ったポスターも、毎日聞いていたHAYATOの歌も、一瞬で全部過去にされてしまったのだ。一ノ瀬トキヤの手によって。
メディアも周りの友人たちも、冷静でかっこいい一ノ瀬トキヤを賞賛していた。
HAYATOになりきっていた彼の賢さを賞賛するコメントも見かけたけれど、何を言っているんだと一人で憤った。
本当のファンなら一ノ瀬トキヤを応援しよう、というツイートを見てあまりのバカバカしさに渇いた笑いが出た。本当のファンって誰のファンなんだ?HAYATOが好きなのに突然同じ顔なだけでぜんぜん違う人間のことを好きになれとでも言うのだろうか。
トキヤも苦しかったんだよ、という言葉も、私にはわからなかった。世界で一番すきな人を突然奪われた私は今まさに苦しいのにどうして一ノ瀬トキヤのことを慮らなくてはならないのか。

週刊誌で「HAYATOをやめることのリスクは覚悟の上だ」と言ったというような記事を見かけた。
私はコンビニで見かけたその雑誌を手に取り、見なければいいものを、わざわざ一文一文噛みしめるように読んだ。
そして家に帰って、毎日眺めていたポスターを外した。
壊れ物をあつかうようにとても慎重にポスターを剥がし、丁寧に丸めたそれを見ながらやっぱり私にとって一ノ瀬トキヤとHAYATOは同一視できないものなのだな、と他人事のように思ったことを覚えている。


後日テレビで一ノ瀬トキヤがST☆RISHというグループでデビューしたことを知った。
私が大好きな顔でぜんぜん違う表情を浮かべる彼はやっぱり知らない人でしかない。
彼の隣には、よく笑う赤髪の男の子がいて、彼がグループの太陽なのだなとなんとなく感じた。
同じようにHAYATOが好きで、一ノ瀬トキヤのことも好きになった友人に聞くと、赤髪の男の子と一ノ瀬トキヤは太陽と月みたいなシンメなんだよ、と教えてくれた。
私の奪われた太陽は月に飲み込まれてしまったんだな、とそこでもう一度悲しくなったりもした。
あのグループにHAYATOがいるところを想像してみたけれど、なんだかうまくいかなくて、やっぱりHAYATOと一ノ瀬トキヤが同じ人間なんだっていうのはうそなんじゃないかと思ったけれど、私が生きている世界では残念なことにそれが現実らしい。

HAYATOが好きで、というと一ノ瀬トキヤでしょ?とセットみたいに名前が出てくることが苦しくて、いつしか誰かにHAYATOの話をすることもなくなってしまい、あんなに毎日毎日飽きることなく聞いていた彼の曲も聞かなくなってしまった。

そうして月日を経て私は高校を卒業し大学生になり、そして社会人になった。
あの後、誰かをこんなに熱狂的に好きになることはなく、HAYATOを上書きすることなんてできないまま大人になってしまった。
世間はすっかり一ノ瀬トキヤに馴染んでいて、街を歩けば駅には彼が主演するドラマの大きな広告が貼られているし、店に入れば有線から聞き覚えのある声がする。
一ノ瀬トキヤとして彼がキャリアを積み上げれば積み上げるほどHAYATOが過去になっていく。

私は今もHAYATOが載っていた雑誌もあの日剥がしたポスターも捨てられないままクローゼットにしまいこんでいる。
ひとり暮らしをするときに実家に置いていくつもりでまとめていたそれは、最後の最後にやっぱり持っていくことを決めた。意地みたいなものだった。
高校の入学祝いに買ってもらったiPodにはHAYATOの曲がぎゅっと詰まっていて、すっかり電源を入れることがなくなった今でも、お守りのように捨てられずに今も私のそばにある。
一ノ瀬トキヤにもう一度HAYATOになってほしいのか、と言われるとそうではない。
HAYATOが虚像だと知らなかったあの頃に戻りたいとは思うけれど、HAYATOが作り物だと知ってしまったいま、もう一度HAYATOが復活してもそれは「演技をしている一ノ瀬トキヤ」にすぎない。


私はやっぱり、「HAYATOが」進む未来を見てみたかった、とテレビ越しに見る一ノ瀬トキヤを見て思うのだ。